執筆:野村證券株式会社フード&アグリビジネスビジネス・コンサルティング部
シニアコンサルタント 遠藤 暁(2025年6月18日)
1.はじめに
2023年9月に自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)が正式なフレームワークを公表したことを受けて、上場企業における非財務情報の開示に、生物多様性が盛り込まれるようになってきた。今後、この動きは、投資家はもとより、社会全体からの要請により、加速していくと考えられる。
生物多様性と言ったときに大前提となるのは、企業活動は自然資本(Natural Capital)の上に成り立っているという考え方である。これは、図表1のハーマン・デイリーのピラミッドの通り、水や空気、土壌などの自然を利活用してビジネスが成り立っており、それら全体を自然資本として尊重していかなければならないということである。現代社会に欠かせない電気ひとつをとって見ても、発電に自然資本が使われていることは明白である。公害などは言うまでもなく、自然資本をないがしろにする企業経営は、自社のレピュテーション低下や利用できる社会資本を傷つけ、回りまわって業績が悪化し、自社の企業価値を毀損することになり、逆に、自然資本を尊重し、利活用する企業は自社の企業価値を持続的に上げていくことができるのである。
その考えを自社の経営においてどのように落とし込んでいくのか、あるいは何を開示すべきなのか、についてTNFDでは、LEAPアプローチという手法で、自然関連の課題を特定して評価することを推奨している。LEAPは、Locate(発見)、Evaluate(診断)、Assess(評価)、Prepare(準備)の各ステップを表している。自社のサプライチェーン/バリューチェーンの全てを一気にということではなく、まずは少数の重要性の高いプロダクトやサービスに限定してLEAPアプローチを取ることが可能であり、また、LEAPの一部を取り上げて開示することも可能である。例えば、キリンホールディングスのTNFD報告では、自然関連への事業の依存度と事業が自然に与えるインパクトから、コーヒー豆、ホップ、紅茶葉、大豆が優先対象として選ばれ、その中で具体的な活動が行えるスリランカの紅茶葉農園にフォーカスし、2023年度はLocate(発見)とEvaluate(診断)について、2024年度はAssess(評価)とPrepare(準備)について開示を行っている。
なお、TNFDは、2015年に設置され既に多くの企業が対応している気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)の4つの柱(ガバナンス、戦略、リスクとインパクトの管理、測定指標とターゲット)と11個の開示提言に自然特有の3つの開示提言を追加(ガバナンス、戦略、リスクとインパクトの管理の各々に1つずつ)したものとなっている。TCFDからTNFDへ拡張していく、という考え方で開示内容を検討すると、実務的に取り組みやすく、且つ投資家にとっても分かりやすいだろう。
図表1 ハーマン・デイリーのピラミッド

2.生物多様性に関する歴史
15世紀以降、大交易時代(大航海時代)を迎え、世界各地の交易が盛んになると、新たな土地への外来種の侵入や珍しい動植物の乱獲も同時に進み、多くの種が絶滅した。これは、生態系内で行われる生存競争や災害などによって起こる自然由来の種の絶滅とは根本的に異なる人為的なもので、そのスピードは早い。最も有名な例の一つとして、乱獲によって絶滅したドードーが挙げられる。ロンドンの自然史博物館に全身骨格のレプリカがあるが、既に全身標本は失われており、わずかに頭部と左脚のみ標本がオックスフォード大学に残されている。ニホンオオカミも、1905年に絶滅したと言われており、これが現在のシカによる農作物等の食害の拡大につながっているとも言われている。人為的な自然破壊は、回りまわって自らに跳ね返ってくるのである。
1892年に米国でシエラクラブ、1895年にイギリスでナショナル・トラストが設立され、産業革命によって引き起こされた自然破壊に対する保護運動が始まった。また、1872年には、米国のイエローストーンが世界初の国立公園として指定され、その保護が開始されている。二度の世界大戦を挟み、1948年には、国際NGOとして、スイスのグランに本部を置く国際自然保護連合(IUCN)が立ち上がり、さらに1961年にIUCNの資金調達部門として世界自然保護基金(WWF)が設立された。その後、1962年にレイチェル・カーソンによる「沈黙の春」が著され、環境問題は市民の間でも広く知られるようになる。欧州で国立公園が設置されるのは、大半が第二次世界大戦後のことである。
また、国際的には、1971年に、湿地とその上に生息する動植物の保全等のために、「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」(いわゆる「ラムサール条約」)が採択された。ラムサール条約の対象となる日本国内の湿地数は徐々に増え、現在、53か所が指定されている。加えて、1972年には、米国政府とIUCNが主体となって、「絶滅のおそれがある野生動植物の種の国際取引に関する条約」(いわゆる「ワシントン条約」)が採択されている。
日本国内では、1949年に尾瀬原ダムによる尾瀬の自然破壊を止めるために「尾瀬保存期成同盟」が立ち上がり、1951年に日本自然保護協会へ名前を変え、1960年に財団法人化しIUCNに加入、2011年に公益認定された。また、公害問題を機に1971年に環境庁(現 環境省)が発足し、環境行政と自然保護行政を担うこととなった。
これらの20世紀半ばから後半にかけての国内外の動きは、現在の生物多様性保護につながるが、どちらかというと公害や都市化などによる自然破壊を食い止める動きであった。一方で、20世紀末からの自然保護活動は、保護だけではなく、より積極的に生物多様性を増加させていこうという動きと捉えることができる。その先駆けとなるのが、1992年に採択された生物多様性条約(CBD)である。2025年3月現在、194か国と欧州連合、パレスチナが締結しているが、米国は遺伝情報の保護に関して不十分であることを理由に、未締結となっている。
CBDは、ワシントン条約とラムサール条約を補完する形の内容となっており、3つの大きな目的を定めている。一つ目が生物多様性の保全、二つ目が生物多様性の構成要素の持続可能な利用、三つ目が遺伝資源の利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分である。この三つ目の目的に関連して、2010年に名古屋議定書が採択されている。また、CBD第8条(生息域内保全)及び第19条(バイオテクノロジーの取扱い及び利益の配分)第3項に関連して、「バイオセーフティに関するカルタヘナ議定書」が2001年に採択され、さらに世界目標として「昆明・モントリオール生物多様性枠組」が2022年12月に採択されている。これらの条約等の関係は、図表2の通りである。
図表2 生物多様性条約と関連する条約等の関係

図表3 自然保護・生物多様性に関する国内外の主な出来事

3.生物多様性と森林・林業・木材産業
生物多様性を考える際に、分かりやすい例の一つが森林生態系である。森林は、様々な動植物が一定の生息域に存在し、相互作用によって成り立っている。生態系内のプレーヤーは、無機物から有機物をつくる植物を中心とした生産者、生産者が生産した有機物を取り入れる消費者、消費者のうち有機物を無機物に分解する過程に関与する分解者の大きく3つ分けられる。植物(生産者)が光合成によって生み出したエネルギーにより葉や枝が生長し、それらを食べる昆虫が集まり、さらに昆虫を食べる鳥類や小型哺乳類が集まり、それらを捕食する、より大型の哺乳類が生息域に存在する。昆虫や鳥類、哺乳類の死骸や落ち葉などは、微生物や細菌類によって分解された後に、植物が根から養分として吸収し、枝葉が生長するサイクルに戻る。生産者から消費者、分解者そして生産者へ戻るサイクルが健全に維持されることで、有機物生産が豊富な森林では自ずと生態系も豊かになる。
日本では、古くからこの森林生態系の豊かさに畏怖の念を抱き、山岳信仰が根付いてきた。今でも、マタギたちは、山に入る前に山の神に祈りを捧げ、山言葉を用いる。山は神聖な地であり、汚れた里の言葉を使わないためとされている。これらの信仰は、自然保護的な考え方に基づいており、むやみに獲物を獲らないことを徹底していることは、その考え方を端的に表している。山岳信仰は、北海道から沖縄まで日本全国に存在しており、アニミズム的信仰に基づいているため、起源は縄文時代初期までさかのぼると考えられている。氷河期に覆われた欧州では樹種が少ないことは言うまでもなく、動物種においても、日本と比較すると少ない。万物に神が宿ると考える日本人の精神性と自然保護あるいは生物多様性というのは、元来馴染みがあると言える。
生物多様性が木材の生産量にどう影響するのかを明らかにしたのは、カナダの森林生態学者のスザンヌ・シマード博士である。2023年に日本語版が出版され、ベストセラーとなった「マザーツリー―森に隠された「知性」をめぐる冒険」(ダイヤモンド社)の著者である。シマード博士は、様々な樹種の間で、根から土壌中の菌類を通じて生態系内にネットワークが張り巡らされており、様々な樹種間でコミュニケーションが行われていることを、放射性同位体を用いた実験により実証した。特に、森林生態系内に存在する高樹齢の「マザーツリー」が、幼木へ栄養分などを送ったり、食害に対する警告を送ったりしていることが分かっている。そして、様々な樹種が存在することで、このようなコミュニケーションが活発になり、最終的な樹木の生長にもプラスの影響があることを明らかにした。
また、九州大学の榎木勉准教授の「長期間にわたる下層植生の除去が森林生態系の機能に及ぼす影響の評価」においても、下層植生の除去がカラマツ人工林の成長量減少につながる結果を示している。さらに、ミズナラ二次林とカラマツ人工林を比較した影響調査では、下層植生の変化に対する生態系機能への影響は、ミズナラ二次林よりもカラマツ人工林において大きいことが分かり、人工林における下層植生の重要さを示唆している。さらに、国立研究開発法人森林研究・整備機構森林総合研究所、地方独立行政法人北海道立総合研究機構森林研究本部林業試験場、アメリカ地質調査所の研究グループは、北海道のトドマツの人工林の中で、少量の広葉樹をトドマツ伐採時に残すことで、鳥類の個体数が増加することを実証した。haあたりわずか20~30本の広葉樹を維持することで、皆伐よりも鳥類の個体数が統計的に優位に維持できるとしており、経済性を少しだけ犠牲にすることで、生態系が保全できることが分かっている。カーボンクレジットのように、この生態系保全による得られる様々な効果を証書化して経済価値として見える化し、木材価格に折り込む、あるいは証書だけを取引できるようになれば、この経済性の犠牲に関しても外部化して、コスト負担をサプライチェーンの下流側でも負ってもらうことが考えられる。
具体的な生物多様性を保全した森林の構想として、愛媛県久万高原町の「黄金の森プロジェクト」を前編の最後に紹介したい。プロジェクトをリードする久万造林は、創業1873年の150年以上に亘って、久万高原町で林業を営んできた。創業者である井部栄範がスギの苗木を植樹したのが、この地の林業の始まりとされている。今では、久万高原町はスギの名産地として知られ、愛媛県の林業研究センターが設置されるなど、県内の林業の中心地の一つとなっている。
黄金の森プロジェクトでは、皆伐した見晴らしの良い南向き斜面に、100年後を見据えた多様性を確保した森づくりを行っている。特徴的なのは、植樹する樹種の選定や植え付け場所などに、庭師の考えを取り入れていることである。日本庭園は、自然の美を狭い範囲に再現することを目的としており、元々は、自然の山の植生から何をどこに植えるかなどの技術が生まれている。その庭師の技術を逆輸入する形で、山に適用したのが、黄金の森プロジェクトである。スギやヒノキといった造林樹種だけではなく、広葉樹を含めた幅広い樹種を植栽している。
また、80年生を超えるスギが生えている林分(樹種や樹齢などが同じ森林を指し、森林管理の最小単位)では、下層植生の生育を促す間伐を定期的に行い、森林セラピーやキャンプ場として利用する計画、間伐や施業を直接見ることが出来るエリアを設ける計画など、林業関係者以外の人々が森に親しみを持ってもらうことも考えられており、オープンイノベーションが生まれる場を提供しようと考えられている。黄金の森プロジェクトが実施されているエリアは、全てドローンによるレーザー計測が終わっており、山全体の3Dデータや施業実績が整備されていることから、どのような施業を行うとどういった状態になるのか、というバックデータがあることも強みである。
後編では前編の内容を踏まえた企業の社会的責任と生物多様性に配慮した今後の企業の在り方について、まずはメセナ、ESG、SDGsといった企業の社会的責任の変遷を追う。そしてプロジェクトファイナンスにおける国際的なコンセンサスであるエクエーター原則や世界銀行EHS(環境・衛生・安全)ガイドラインなどを取り上げ、生物多様性保全の考え方を解説した上で、投資家の間で関心が高まっている非財務情報の開示にも触れて、今後の企業経営における生物多様性の重要性を強調したい。
以上
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