執筆:野村證券株式会社フード&アグリビジネスビジネス・コンサルティング部
シニア・コンサルタント 周旋(2025年5月20日)
はじめに
現代のマーケティング戦略は、製品の機能や価格による競争から脱却し、体験価値(experiential value)や情動的つながり(emotional bonding)の創出に向かっている。その中で注目されているのが「五感ブランディング」である。特に嗅覚は、他の感覚に比べて人間の記憶や感情と深く結びつく性質を持つ。「香り」は、消費者の感情・記憶・文化的アイデンティティに働きかける非言語的チャネル(non-verbal channel)として、再注目されている。それゆえ、香りを用いたブランド体験は、消費者との情緒的な関係構築において大きな可能性を秘めている。
本レビューでは、香りによる文化的共感とブランド構築の可能性について、食に関する事例を通じて論じる。具体的には、日本の焼き芋文化、中国の伝統的な焼き芋文化、そして中国の新興ティーブランド「喜茶(Heytea)」などに注目し、香りがどのように消費者との関係を構築し、文化的共鳴を生み出すか、特にZ世代を中心とする現代の消費者が重視する「意味」「物語性」「自己表現」といった価値に香りがどう貢献しているのかを、ブランド論・感覚マーケティング・消費者心理学の視点から論述する。
1. 嗅覚とブランドの記憶 ― 理論的背景
香りは、視覚や聴覚に比べて非言語的かつ潜在的な記憶を喚起する力がある。嗅覚刺激は、大脳辺縁系を経由して感情や記憶の処理に関与する扁桃体や海馬に直接働きかける。このため、ある香りを嗅いだ瞬間に過去の出来事や情景が鮮明に思い出される現象、いわゆる「プルースト効果」が生じる。
ブランド研究においても、香りは「ブランド記憶(brand memory)」や「ブランド・アフェクト(brand affect)」に影響を与える要素とされている。さらに、文化的共感(cultural resonance)という概念において、香りは個人の文化的ルーツや社会的背景とブランド体験を結びつく役割を果たす。
2. 日本の焼き芋文化 ― 香りによる安心と郷愁
日本で焼き芋を食べる文化は、戦後から高度経済成長期を経て、現在に至るまで人々の暮らしに深く根ざした存在となっている。とりわけ冬には、石焼き芋の炭火の香りが街角に漂い、それが季節の移ろいを感じさせるトリガーとなってきた。
2003年に静岡県のマックスバリュ東海株式会社が、傘下のスーパーでオーブンによる焼き芋の販売を開始して以来、現在では多くのスーパーや一部の百貨店のスイーツ売り場でも焼き芋が販売されている。これらの店舗では、香りを意図的に拡散する設計が施されており、例えば換気ダクトを調整して「店外に香ばしさを漏らす」といった空間設計まで実施されている。この香りは、単なる「おいしそう」という印象にとどまらず、「子供の頃の帰り道」「家族との時間」といった記憶と結びつき、消費者の深層的な安心感を喚起する。
このように、焼き芋は香りを通じて「自己の過去」や「文化的安心感」を再確認させる装置として機能している。ブランド側が能動的に語る物語ではなく、消費者が自身の物語を投影する“受動的共鳴”を生み出している点に特徴がある。
3. 中国の焼き芋文化 ― 都市化の中で香りがつなぐ記憶
中国においても、焼き芋は冬の季節に街角で見かける代表的な食べ物であり、その香りには文化的意味が宿っている。特に都市部においては、昔ながらのドラム缶型焼き芋屋台が出現すると、多くの人々がその場に足を止める。香りは一瞬で「寒い日」「祖母の家」「帰省の道中」といった情景を呼び起こし、消費者へ一時的に情緒的な帰属感をもたらす。
このような香りの体験は、都市化と核家族化が進行する中で、急速に失われつつある「人間関係」「共同体」「手作り感」といった文化的価値に対するノスタルジーを喚起する。とりわけZ世代にとっては、物理的には体験したことのない記憶であっても、物語として共有された文化的記憶(cultural memory)として香りが共感を呼び起こすという現象が起きている。ここでは、焼き芋の香りが「文化的ルーツ」と「都市的日常」のギャップを埋めるメディア(情報媒体)となっている。
4. 中国のフードブランド事例 ― 戦略的に活用する先進的事例
香りを用いた文化的ブランディングは、焼き芋に限らず、一部のフードブランドが活用することを模索している。ここでは、喜茶(Heytea)、三頓半(SANDUNBAN)、柒香茗(Qi Xiangming)、王小鹵(Wang Xiaolu)という四つの異なるタイプのブランドを取り上げ、それぞれが香りをどのように設計・運用し、文化的共感やZ世代との関係性を築いているのかを考察する。
① 喜茶(Heytea) ― 都市的文脈における香りの再設計
喜茶は、2012年に広東省で創業された中国の新興ティーブランドである。同ブランドは、茶葉・フルーツ・ミルク・フレーバーなどを組み合わせたドリンクを主力とし、都市部の若年層、とりわけZ世代を中心に爆発的な人気を獲得した。
喜茶の香り戦略は、焼き芋のような「自然発生的な香り」ではなく、意図的に設計された香り体験である。例えば、茶葉の抽出温度、フレーバーの配合比率、カップの形状、パッケージの開閉設計に至るまで、香りが最適に拡がるように調整されている。特に、商品の開封時や飲用直前といった決定的な瞬間に香りが最も強く立ち上るよう、容器設計や包装技術を工夫している。また、熱いお湯を注ぐことで香り成分が瞬間的に揮発するようにブレンドされた素材の選定が挙げられる。これにより、消費者は自分の選んだ「タイミング」と「場所」で香りの体験を最大化でき、日常の中に自発的なリフレッシュの瞬間を作り出すことが可能になる。香りを楽しむ「タイミング」や「場面」を精緻にコントロールすることで、消費者の五感に訴えるブランド体験を創出している。
喜茶の香りは「パーソナルな共鳴」ではなく、都市の文脈での“新たな意味付け”として機能している。たとえば、紫芋ドリンクは“懐かしい味”を想起させると同時に、“冬限定の自分へのご褒美”というメッセージとして再定義されている。
さらに、喜茶は「限定性」と「参加性」を香り体験と組み合わせることで、ブランド共創(co-creation)の構造を築いている。消費者は香りだけでなく、パッケージ・SNS投稿・店舗空間の写真などへの発信を通じて、「自分自身が意味を付け加える体験」を共有している。
② 三頓半(SANDUNBAN/サンドンバン)― 香りで都市の情緒を届けるコーヒーブランド
三頓半は、インスタントでありながら高品質なスペシャルティコーヒーを提供する中国ブランドである。ブランド戦略の中核には「開封時の香り体験」があり、各フレーバーには都市の風景や特徴が反映された香りの物語が付随している。例えば「林間の朝」や「午後の書斎」といったネーミングにより、香りと生活の情緒をリンクさせている。
この香り戦略は、「忙しい都市生活の中にある静寂な瞬間」を演出し、消費者が日常に文化的意味づけを与える行為を支援している。ここでは香りは、リラクゼーションや自律的生活感のシンボルとして機能している。
③ 柒香茗(Qi Xiangming/チシャンミン)― 香りで古典と日常をつなぐ現代茶ブランド
柒香茗は、伝統的な中国茶文化の美意識を継承しつつ、現代生活に適合するプロダクトデザインと香り体験を融合させているブランドである。使用する茶葉には竹、桂花や茉莉花(ジャスミン)など、古典詩にもしばしば登場する芳香素材が採用され、香りそのものが「香茗」(香茶)の象徴として機能する。
ここでの香りは、都市生活に取り込まれた伝統文化を想起させる役割を果たし、Z世代に「自分は古典を知っている」という文化的自己効力感を与える。
④ 王小鹵(Wang Xiaolu/ワンショウルー)― 香りで郷土の記憶を蘇らせるスナックブランド
王鹵は、中華スパイスを効かせた卤味(煮込み系スナック)の香りで強い訴求力を持つブランドである。封を開けた瞬間に広がる花椒(ホアジャオ)や八角の香りは、四川地方の料理文化や家庭的な記憶を呼び起こす。特に都市部に住む若年層にとっては、「幼少期に家族と過ごした食卓」「田舎に帰省した時の空気」を思い出させるトリガーとなっている。
このように王小鹵の香りは、家庭・郷土・郷愁といった文化的レイヤーを即座に呼び起こす装置として設計されており、非常に強い“感情の再生効果”を持っている。
5. 香りを通じた消費者関係構築の比較 ― 心理・共感・文化レゾナンス(共鳴)
香りという切り口を通じて、焼き芋と上記ブランドがそれぞれどのように消費者との関係を構築しているかを以下に整理する。
図表1:焼き芋及び中国フードブランドの比較表:香りによる文化的レゾナンスとブランド関係性の分析

このように、香りは単なる嗅覚刺激にとどまらず、ブランドごとに異なる文化的文脈(レイヤー)や心理的価値に働きかけており、消費者との関係構築における設計思想そのものに差異をもたらしている。たとえば焼き芋の香りは、「郷愁」や「家庭」といった情緒的な文化記憶を喚起し、消費者に安心感や懐かしさをもたらす。一方、喜茶では、香りが「モダン」「限定」「自己演出」といった都市的意味と結びついており、より能動的に自己表現するZ世代の心理に対応している。ここでの香りは、単なる付加価値ではなく、「ブランドとの共創体験を構成する要素」として機能している。さらに、三頓半は「香りと都市の詩的瞬間」を、柒香茗は「古典の美意識と現代生活の橋渡し」を、王小鹵は「郷土料理の記憶と都市生活の再接続」を、それぞれ香りによって実現している。これらのブランドは、香りを「商品の匂い」としてではなく、消費者の文化的アイデンティティや記憶、社会的自己像に働きかける“意味と物語の媒体”として扱っている点が共通している。
つまり、香りは“感じるもの”ではなく、“解釈し、語るもの”になっている。そして、その香りに込められた意味が、ブランドの世界観や価値観と接続されることで、消費者は自分の感性や人生観と重ね合わせてブランドと関係を築いていく。このような高度な香り活用は、今後のブランディングにおいて単なる差別化手法ではなく、“物語と共感を設計する戦略装置”として位置づけられていく可能性を示しており、焼き芋や喜茶、そして三頓半・柒香茗・王小鹵のようなブランドは、その先進的な実践例であるといえる。
6. 結論と実務的示唆 ― 香りは文化的共感と消費者関係を媒介する戦略装置
本レビューでは、日本・中国それぞれの焼き芋文化と、複数の中国の現代フードブランドに着目し、嗅覚を通じたブランド体験がどのように消費者の感情・記憶・文化的共感と結びつき、ブランドとの関係性を構築しているのかを分析してきた。
その結果、香りは商品属性だけではなく、消費者の内面(記憶・感情・文化的ルーツ)とブランドを接続するメディアとして機能することが明らかになった。焼き芋は「記憶を喚起する香り」、喜茶は「意味を構築する香り」として、いずれもZ世代の感性と高い親和性を示している。
このような視点は、訪日外国人を対象とした小売・免税業態においても活用可能である。特にZ世代を中心とした中国人インバウンド顧客に対しては、単なる“商品購入”ではなく、“意味を伴った体験”の提供が重要であり、ここに香りが大きな役割を果たすと考えられる。
日本で免税店を展開する企業へのヒアリングによれば、「訪日中国人にとって、香りは文化的記憶を呼び起こす要素であり、特に抹茶や焼き芋の香りは“日本らしさ”として強く認識されている。」との見解が示された。また、「香りによって顧客が空間に安心感や心地よさを感じることで、店内滞在時間が自然と延び、結果として商品との接触機会や衝動購買の可能性が高まる。」と指摘された。
さらに、「香りがSNSへの投稿や口コミ行動にも影響を与える可能性がある。」との観点から、リアル空間での香り体験が、オンライン上でのブランド接点の創出にもつながるという期待も語られた。香りは視覚や価格訴求では届かない“感情的満足”を提供する手段であり、特に短期滞在型の訪日観光客にとっては、記憶に残る購買体験を形成する鍵となる可能性がある。これらは中国人や日本人だけでなく全てのインバウンド客を対象にして、香りを体験化できる食品や飲料に特有のブランディング手法である。
以上より、インバウンド客向け食品や飲料の販売戦略における実務的示唆をAIDMA(RA)モデルとしてまとめる(図表2)。
図表2:インバウンド客向け食品・飲料の販売戦略におけるAIDMA(RA)モデル

おわりに
香りは、空気に混ざる一過性の刺激ではなく、記憶を呼び起こし、文化を想起させ、感情を動かす「戦略的感覚資源」である。だからこそ、香りは単なる演出ではなく、ブランドの“意味”を構築し、消費者との感情的つながりを形成するための有力なブランディング手法となりうる。こうした香りの特性を意識的に設計し、ストーリーや空間、商品体験と統合できるブランドや事業者こそが、感性主導の時代において他との差異化を実現し、文化的共感を通じた強固なブランド構築を成功に導くだろう。
参考文献
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久保田進彦(2011) 「感性価値のマーケティング」
ディスクレイマー
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